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【踏海志士】金子重之助【師吉田松陰との絆】

吉田松陰、金子重之助の銅像(萩市)

 
 金子重之助は、萩の松陰誕生地横にある吉田松陰銅像の隣で松陰を見上げている人物である。その松陰を見上げる表情は、その短い生涯において、心から尊敬しうる師に出会えた歓びに満ちあふれているような気がする。

 荘大な志を有す本物の師に巡り合えた重之助はある意味、幸福感を幾分かでも感じつつその人生を終えたのだろう。そう信じたい。そう思わねば、やりきれないほどこの男の最期は凄惨である。

 
 
 重之助は長州阿武郡紫福(しぶき)村の生まれで、松陰より二歳年下である。実家は染物業であったが、他家を継ぎ藩士久芳内記の組下の足軽として仕えていた。二十歳前後の頃、酒と色で失敗したことがあり、その後はそれを悔いて、勉学に励んでいた。

 宮部鼎蔵の親友、永鳥三平が重之助のその志を哀れみ最初に教えだした。松陰はこの永鳥三平の紹介で同藩出身の重之助と知り合うこととなる。重之助は松陰を得難い師と仰ぎ、藩邸を出て鳥山新三郎の家で松陰と同室するようになっていた。

 

2.師と共に

 ペリー二度目の来航の、安政元年のことである。ペリーは幕府に圧力をかけ、十二か条にわたる日米和親条約に調印させ、下田、函館両港を開港せしめていた。これにより、松陰は、なお一層、世界を知りたいという欲求を強め、渡航計画を密かに立てていた。

 当初は、一人で計画を遂行するつもりでいたが、並々ならぬ松陰の決意を感じ取った重之助はその真意を松陰に問い詰めたのである。

 重之助の情熱溢れる真剣な言葉に松陰はうごかされ、計画を打ち明けたのだった。計画を知った重之助は「先生ひとりではやれない」と、同行すると言ってきかなかった。やがて、松陰は重之助の同行を結局、認めてしまったのだった。

 

3.渡航計画

 宮部鼎蔵ら友人達に別れを告げた松陰と重之助は、三月五日夜、江戸を出た。彼等は、夜のうちに八里を歩き、夜明けに保土ヶ谷までたどり着いて宿をとった。

 一眠りの後、二人は米艦に行って差し出す「投夷書」の準備にとりかかることにした。万一の場合に、藩に迷惑がかからぬようお互い長州人であることは隠し、偽名を使うこととした。

 重之助は藩邸を出てから江戸では、自分の出身地の紫福より、「渋木松太郎」と名乗っていたが、「渋木」はすなわち「柿」であるとし、「市木公太」(いちきこうた)、松陰は吉田家家紋の瓜の中の卍より、「瓜中万二」(くわのうちまんじ)と名乗ることにした。

 

4.国禁を犯す

 ペリーが下田沖に現れたのは、三月二十一日のことである。三月二十七日朝、二人はようやく手紙をアメリカ士官に手渡すことに成功し、夜を待った。

 計画では、手紙で要求した米艦隊からの迎えのボートに小船で乗り付けるというものだったが、迎えに来なければ、軍艦まで小船で乗り付けるつもりでいた。

柿崎弁天島(下田市)

ふたりが身を潜めていた弁天島の祠付近

 
 夜、二人は小船を漕ぎ出し、米艦隊のいる沖に向かった。しかし、その船には櫓を止める杭が無く、ふんどしと帯で櫓を船に縛り付け、力一杯漕ぎ出した。

 途中、船に縛りつけたふんどしがちぎれてしまったりと、難儀をしたが、ようやく、ペリーのいるポーハタン号に乗り付けた時には、二人は素裸であった。

 身振り手振りを交え必死にペリーへの面会を求めたが結局、思い果たせず、悲嘆に暮れる二人であった。条約が結ばれた直後であり、幕府への体裁からか、ペリーは二人の乗船を拒否したのである。

踏海の朝之碑(下田市)

5.自首

 彼等が乗ってきた小船は沖に流されてしまった為、ペリーはボートで陸地まで送ってくれた。

 陸地に着いた二人は絶望の淵に立ち沈黙を続けていたが、重之助が「いさぎよく、切腹しましょう」と口を開いた。松陰は静かに首を振り、「死んではならぬ。なんのこれしきのこと」と、笑って見せた。

 松陰は、下田の役人に国難を知らしめ、周囲の迷惑を少なくしたうえで、斬られようとし、下田奉行所に自首して出た。みせしめのため路上に面した獄に入れられたが、松陰は牢番から借りた本を手に通行人がのぞき込む中、重之助に講義をはじめたのだった。

 「このような場所でする学問こそ本当の学問なのだ。」と、松陰は言い、重之助への講義を続けるのだった。

吉田松陰拘禁の跡(下田市)

 その後、流された小船に残した荷物より、佐久間象山が松陰に送った送別の詩等がみつかり、密航を煽動し、共謀したということで、象山も逮捕されてしまう。
 

6.百姓牢へと

 四月、松陰と重之助は江戸に護送され伝馬町の獄に入れられた。伝馬町の獄では二人は別々に収容され、重之助は藩籍を離れているので、身分の低い者を収容する無宿牢に入れられ、その後、百姓牢に入れられた。

 伝馬町の獄には、既に逮捕されていた、佐久間象山がいて、取り調べが行われていた。

 松陰は、あくまでも密航計画は自分一人で画策し、象山には関係が無いことであり、また自分が煽動したので重之助がついてきた、と言い張った。

 象山もまた、堂々とした態度で、優秀な青年の海外見聞が日本にとって必要、急務であると主張して、幕府の姑息を責めたのだった。

 この間、百姓牢の重之助の身体は日々、衰弱の一途をたどっていた。

 

7.国許へ

 九月幕府は松陰、重之助に国許での蟄居を命じた。象山も同罪であった。松陰と重之助は唐丸籠で萩に護送された。

 昨日までは彼等は同じ同士であり、むしろ頑健な肉体をもつ重之助の方が籠での護送くらい何でもなさそうではあるのだが、二人の間には大きな開きが出来てしまっていた。

 日々、昂然としてゆく松陰に対し、重之助は半年余りの牢生活に弱りはて、加えて治して来たはずの下痢を再発させてしまっていたのである。

 

8.惨状

 護送中、宿舎も宿の土間に置かれ籠の中ですごすという酷い扱いであった。

 特に、身分の低い重之助に対する扱いは惨酷で、下痢で苦しむ中、用便の為、籠から出ることも許されず、当然衣服は汚れ、悪臭を放ち、護送の人間達の扱いはいよいよ冷たくなっていく。重之助は着替えを頼むのだが、護送の人間達は面倒なのでそのままにして先を急ぐのだった。

 日々、重之助の参状は目をおおうばかりとなり、松陰が護送の役人に重之助の着替えを頼むのだが、「罪人の指図は受けぬ」と、応じようとしない。

 松陰は「武士の情けを知らぬのか」と激怒するも、遂には、自分の着物を脱ぎ役人に渡し、「金子に着せてくれ」と、言った。

 旧暦の九月は初冬に近い。重之助は「先生を凍えさせて自分だけが着用できませぬ」と、頑として、松陰の着物を受け取ろうとはしなかった。

 

9.重之助の死

 萩に着くと松陰と重之助はまたも獄を分けられた。松陰は士分の者が入る野山獄へ、重之助は野山獄と道ひとつ隔てた、士分以下の者が入る岩倉獄へ収容された。

岩倉獄跡(萩市)

 重之助は岩倉獄においても衰弱しきった体が回復することは二度と無かった。そして翌年、一月十一日、重之助は獄中で、二十五年の短い生涯を終えたのだった。

 

10.師松陰の悲嘆

 重之助の死を知った松陰の悲嘆は大きく、それから出獄するまでの1年間、食費を節約し、金百疋を貯めて遺族に送っている。これは、重之助の墓前の石の花筒として使われたという。

 また、彼の死を弔う為、生前の重之助を知っている者達から詩歌の寄稿を乞うて、「寃魂慰草」(めんこんいそう)を編纂し、後世に残してやっている。

 更には、野山獄において、松陰の呼びがけにより、金子重之助追悼の獄中句会を開いて、彼の霊を弔ったという。

 

11.金子重之助とは

 金子重之助という男は、ある意味、吉田松陰という男と出会い、その人間性に惹かれたが為、余りに凄惨な最後を迎えるに至ったと、言えるかもしれない。

 しかし、その短い人生において、その志のままの行動を自分の信ずる師とともに貫いたことは、重之助の人生に一途の光を灯したに違いない。

 最後は、藩籍の無い百姓身分扱いの重之助ではあったが、立派にその志を全うした志士であったと言えるだろう。

 

おわり
 
【憂国の志士】吉田松陰【松下村塾と獄中の理想教育】
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【吉田松陰】伊豆下田・踏海企ての地を訪ねて【金子重之助】
吉田松陰と金子重之助による踏海企ての地を訪ねました。 歴史的な日となったその日の彼らの一挙手一投足が目に浮かぶようで、非常に感慨深いものがありました。
 
参考文献

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